環境影響評価法の概要

1.環境影響評価法の制定の経緯

1-1 背景

 環境影響評価は、土地の形状の変更、工作物の新設その他これらに類する事業を行う事業者が、その事業の実施に当たりあらかじめその事業に係る環境への影響について自ら適正に調査、予測又は評価を行い、その結果に基づき、その事業に係る環境の保全について適正に配慮しようとするものである。
 我が国においては、昭和47年6月に「各種公共事業に係る環境保全対策について」の閣議了解を行い、国の行政機関はその所掌する公共事業について、事業実施主体に対し「あらかじめ、必要に応じ、その環境に及ぼす影響の内容及び程度、環境破壊の防止策、代替案の比較検討等を含む調査検討」を行わせ、その結果に基づいて「所要の措置」を取るよう指導することとし、これにより本格的な環境影響評価に関する取組が始まった。
 また、昭和47年7月に示された4大公害裁判の一つである四日市公害裁判の判決理由においては、事前に環境に与える影響を総合的に調査研究し、その結果を判断して立地する注意義務がある旨が述べられ、その欠如をもって被告企業の「立地上の過失」があるとしたが、これは、環境影響評価の必要性を判例上明確にしたものとして位置づけられている。
 その後、港湾法や公有水面埋立法の改正(48年)等により、港湾計画の策定や公有水面埋立の免許等に際し、環境に与える影響について事前に評価することとされた。また、瀬戸内海環境保全臨時措置法(48年制定、53年に瀬戸内海環境保全特別措置法と改正)にも環境影響評価に関する規定が設けられた。さらに、自然環境保全基本方針(48年)が定められ、この中でも環境影響評価に関する方針が示された。また、発電所の立地(52年、通産省省議決定)、整備5新幹線(54年、運輸省通達)等、行政指導等の形でも環境影響評価が行われることとなった。
 一方、地方公共団体においても、条例については川崎市(51年)、要綱については福岡県(48年)を始めとして環境影響評価の制度化が進められた。
 こうした中で、昭和40年代以降に計画が具体化した苫小牧東部、むつ小川原等の大規模工業開発を中心とする地域開発計画については、その実施が環境に重大な支障を及ぼさないよう環境影響評価が実施されてきた。
 また、大規模な国家プロジェクトに関しては環境影響評価を実施すべきとする観点から、閣議で決定された本州四国連絡橋児島・坂出ルート建設事業について環境影響評価が実施された。
 このように、個別法、事業官庁による行政指導等の形で具体的な環境影響評価事例が積み重ねられる中で、統一的な手続等による環境影響評価の適切かつ円滑な実施が重要な政策課題となってきた。このため、環境庁においては、昭和54年に出された「速やかに環境影響評価の法制度化を図られたい」旨の中央公害対策審議会の答申を踏まえ、環境影響評価の法制化を図るため、所要の調整を進めた。調整は難航したものの、政府・与党の調整の結果、昭和56年4月、環境影響評価法案(以下「旧法案」という。)が国会に提出された。
 しかし、旧法案については、衆議院環境委員会で審議が行われたものの採決には至らず、その後継続審査を繰り返した後、昭和58年11月の衆議院の解散に伴い、審議未了・廃案となった。また、旧法案の国会再提出も見送られることとなったため、当面の事態に対応するため行政ベースで実効ある措置を早急に講ずるべく、昭和59年8月、「環境影響評価の実施について」の閣議決定を行い、政府として旧法案の要綱を基本とした統一的なルールに基づく環境影響評価を実施することとなった。